映画『アイム・スティル・ヒア』は、実話に基づく政治ドラマ作品として、軍事独裁政権下のブラジルで起きた痛ましい出来事と、それに立ち向かう女性の不屈の精神を描いた感動作です。ウォルター・サレス監督×フェルナンダ・トーレスの見事なコラボレーションが、観る者の心に深い感銘と共感を刻みます。
第97回アカデミー賞で国際長編映画賞を受賞し、ブラジル映画史に新たな歴史を刻んだ本作。「セントラル・ステーション」「モーターサイクル・ダイアリーズ」で知られるブラジルの名匠ウォルター・サレスが12年ぶりに長編監督を手がけた意欲作です。
1970年代のブラジル軍事政権下で、突如連行され行方不明となった夫の消息を求めて闘い続けた妻エウニセ・パイヴァの40年以上にわたる実話を、繊細かつ力強く描き出しています。
1.映画『アイム・スティル・ヒア』の基本情報
タイトル | アイム・スティル・ヒア |
原題 | Ainda estou aqui |
英題 | I’m Still Here |
ジャンル | ドラマ、政治、伝記 |
製作国 | ブラジル・フランス合作 |
言語 | ポルトガル語 |
上映時間 | 137分 |
公開日 | 2025年8月8日(日本) |
配給 | クロックワークス |
レイティング | PG12 |
1-1.あらすじ
1970年代、軍事独裁政権が支配するブラジル。元国会議員ルーベンス・パイヴァとその妻エウニセは、5人の子どもたちと共にリオデジャネイロで穏やかな暮らしを送っていた。
1971年、政権に批判的だったルーベンスは、突如として政府当局に連行され、そのまま行方不明となってしまう。残された妻エウニセは、5人の子どもを抱えながら夫の帰りを信じて待ち続けるが、彼女自身も拘束され、政権批判者の告発を強要される。
釈放された後、エウニセは軍事政権による横暴を明らかにし、夫の失踪の真相を求めるため、不屈の精神で立ち向かっていく。彼女の闘いは数十年に及び、その間にブラジル社会も大きく変わっていく…
本作は、ルーベンス・パイヴァの息子であるマルセロ・ルーベンス・パイヴァの回想録を原作としています。エウニセの揺るぎない信念と、子供たちへの愛情、そして真実を追求する勇気が、この映画の核心を形作っています。
1-2.制作スタッフ
監督 | ウォルター・サレス |
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製作 | マリア・カルロタ・ブルーノ/ホドリゴ・テイシェイラ/マルティーヌ・ドゥ・クレルモン=トネール |
原作 | マルセロ・ルーベンス・パイバ |
脚本 | ムリロ・ハウザー/ヘイター・ロレガ |
撮影 | アドリアン・テイジード |
音楽 | ウォーレン・エリス |
1-3.監督:ウォルター・サレス
ウォルター・サレス監督は、ブラジル映画界を代表する巨匠として国際的に高い評価を得ています。1998年の『セントラル・ステーション』では、ベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞し、アカデミー賞でも作品賞と主演女優賞(フェルナンダ・モンテネグロ)にノミネートされました。
2004年には『モーターサイクル・ダイアリーズ』で、革命家チェ・ゲバラの若き日の旅を描き、カンヌ国際映画祭で高い評価を受けました。その後、ジャック・ケルアックの不朽の名作を映画化した『オン・ザ・ロード』(2012年)を手がけています。
サレス監督の作品の特徴は、社会的テーマと個人の旅を融合させた物語性と、詩的かつ繊細な映像表現にあります。彼はしばしば、人間の内面と外部世界との関係性や、社会の中で生きる個人のアイデンティティを探求します。
ウォルター・サレス監督の主な作品
- 『セントラル・ステーション』(1998年)
- 『ビハインド・ザ・サン』(2001年)
- 『モーターサイクル・ダイアリーズ』(2004年)
- 『ダーク・ウォーター』(2005年)
- 『オン・ザ・ロード』(2012年)
- 『アイム・スティル・ヒア』(2024年)
本作は、サレス監督が16年ぶりに祖国ブラジルに向けたカメラを通じて描いた作品です。サレス自身も幼少期にパイヴァ家と親交があり、この映画は個人的な記憶と国の歴史を紡ぐ重要な作品となっています。
2.キャスト紹介
2-1.フェルナンダ・トーレス(エウニセ・パイヴァ役)
ブラジルを代表する実力派女優で、国際的にも高い評価を受けています。本作では、夫を失いながらも5人の子どもを育て、真実を追求し続けるエウニセを熱演し、第82回ゴールデングローブ賞でブラジル人女優として初の主演女優賞(ドラマ部門)を受賞しました。
トーレスは監督ウォルター・サレスの常連女優であり、彼女の演技は抑制された感情表現と、繊細な心理描写に特徴があります。本作での彼女の演技は「最小限の表情で最大限の感情を表現する」と批評家から絶賛されています。
2-2.フェルナンダ・モンテネグロ(老年期エウニセ役)
ブラジルを代表する大女優であり、フェルナンダ・トーレスの実母です。1998年の『セントラル・ステーション』でアカデミー賞主演女優賞にノミネートされ、ブラジル人女優として初の快挙を成し遂げました。
本作では娘のトーレスが演じる若い頃のエウニセから、モンテネグロが老年期のエウニセへとバトンを受け継ぐ形で登場し、実の親子による演技の継承が、映画のテーマである「記憶と時間の継承」を見事に体現しました。
2-3.セルトン・メロ(ルーベンス・パイヴァ役)
ブラジルの名優であるセルトン・メロが、失踪した元議員ルーベンス・パイヴァを演じています。彼は映画の冒頭部分を中心に登場し、家族との穏やかな日常や政治的信念を持つ知識人として印象的に描かれました。
2-4.その他の出演者
- ヴァレンチナ・ヘルツァージ:ヴェラ・パイヴァ(思春期)役
- マリア・マノエラ:ヴェラ・パイヴァ(成人)役
- ルイザ・コソフスキ:エリアナ・パイヴァ(少女期)役
- マルジョリエ・エスティアーノ:エリアナ・パイヴァ(成人)役
- ギレルメ・シルヴェイラ:マルセロ・ルーベンス・パイヴァ役
- アントニオ・サボイア:マルセロ・ルーベンス・パイヴァ(成人)役
3.歴史的背景を詳しく解説
本作の舞台となる1970年代のブラジルは、1964年から1985年まで続いた軍事独裁政権下にありました。この時代の歴史的背景を理解することで、映画の深層に迫ることができます。
3-1.歴史的背景:ブラジル軍事政権時代
- 1964年:軍事クーデターにより民主的に選ばれたジョアン・グラール大統領が失脚。軍事政権の始まり。
- 1968年:軍政第5号(AI-5)施行。この法令により、言論・表現の自由が著しく制限され、国会の閉鎖や政治的権利の停止などが行われた。
- 1969-1974年:エミリオ・ガラスタズ・メジシ政権。「鉛の時代」と呼ばれ、政治的弾圧が最も激しかった時期。多くの人権侵害が発生。
- 1970年代前半:左派グループへの弾圧が激化。拷問、強制失踪、不当逮捕が横行。本作の主人公エウニセの夫ルーベンスが失踪したのはこの時期。
- 1974-1979年:エルネスト・ガイゼル政権。徐々に政治的自由化が進む「緩和」の時期が始まる。
- 1979-1985年:ジョアン・フィゲイレド政権。徐々に民政移管に向けた準備が進む。
- 1985年:民政に移管。軍事政権の終結。
- 1995年以降:政権によって行方不明になった人々の死亡証明書の発行や遺族への補償が始まる。
3-2.ブラジル軍事政権下の人権侵害
軍事政権下のブラジルでは、特に1968年の軍政第5号(AI-5)施行後、表現の自由が著しく制限され、多数の反対派への弾圧が行われました。
政府に批判的な知識人、学生、ジャーナリスト、政治家などが標的となり、逮捕、拷問、強制失踪などが横行。少なくとも434人が殺害または行方不明となり、数万人が拘束され、拷問を受けたとされています。
2011年には「国家真相委員会」が設立され、この時期の人権侵害の調査が行われましたが、多くの事件は未解決のままです。アムネスティ法により、多くの加害者が裁かれることなく今日に至っています。
本作は、このような歴史的背景の中で、真実を求め続けた一人の女性の物語を通じて、ブラジルの集合的記憶と対峙しようとする試みでもあります。エウニセ・パイヴァの闘いは、同じような経験をした多くのブラジル人家族の象徴となっています。
4.制作背景・舞台裏
『アイム・スティル・ヒア』は、ウォルター・サレス監督にとって、『オン・ザ・ロード』(2012年)以来12年ぶりの長編監督作品であり、祖国ブラジルを舞台とした作品としては16年ぶりとなります。
4-1.制作の経緯
本作の原作となったのは、ルーベンス・パイヴァの息子マルセロ・ルーベンス・パイヴァの2015年出版の回想録『Ainda estou aqui』です。サレス監督は幼少期にパイヴァ家と親交があったことから、この物語に個人的な関心を持ち、映画化を決意しました。
脚本は、ムリロ・ハウザーとヘイトル・ロレガが担当しました。特筆すべきは、ハウザーがカリム・アイノウズ監督の『エウリディス・グスマンの見えない人生』(2019年)の脚本も共同執筆しており、ブラジル社会における女性の苦難と抵抗をテーマとした作品に豊富な経験を持っていることです。
4-2.音楽
映画音楽は、オーストラリアのミュージシャンで作曲家のウォーレン・エリスが担当しました。繊細かつ感情的な楽曲が、映画のシーンに深みを与えています。
4-3.実際の出来事との関係
映画は実話に基づいていますが、映画的表現のために一部フィクション化されています。しかし、エウニセ・パイヴァが夫の真相を求め続け、後に弁護士となって人権活動に尽力したことや、ブラジル連邦政府や国連の顧問を務めるまでになったことなどの重要な事実は忠実に描かれています。
実際のエウニセ・パイヴァについて
- 夫の失踪後、48歳で法学部を卒業
- ブラジルの先住民の権利に関する専門家として活動
- ブラジル連邦政府、世界銀行、国連の顧問を務めた
- 2018年に89歳で死去するまで人権活動を続けた
4-4.親子二代での出演
本作の大きな特徴は、母娘の女優が同じ役を演じていることです。フェルナンダ・トーレスが若いエウニセを演じ、その実母であるフェルナンダ・モンテネグロが老年期のエウニセを演じるという配役は、単なる血縁による外見の類似性を超えた、象徴的な意味を持っています。これは世代を超えた記憶と抵抗の継承を視覚的に表現するサレス監督の演出意図が反映されています。
5.批評と受賞
5-1.批評家の評価
『アイム・スティル・ヒア』は、国際的な映画批評家から圧倒的な高評価を受けました。特にフェルナンダ・トーレスの演技が称賛され、多くの批評家が「年間最高の演技」と評しました。
“感情のリズムを見事に捉えた、形式は古典的だが共感においてはラディカルな傑作”
– ジェシカ・キアン(『バラエティ』)
“トーレスの見事で複雑に層を成した演技が映画の心臓部を形成している”
– ウェンディ・アイド(『スクリーン・デイリー』)
映画監督のアルフォンソ・キュアロンも本作を2024年の最高の映画の一つに挙げ、「ウォルター・サレスの映画を見ることは、寛大さに抱かれることであり、目に見えないが確かな力で同時に高揚し、根付かせる引力のような体験だ」と絶賛しました。
レビュー集約サイトRotten Tomatoesでは、184の批評のうち97%が肯定的で、平均評価は8.3/10を記録。Metacriticでは、41人の批評家による平均スコアが100点満点中85点で「普遍的な称賛」を示しています。
5-2.受賞歴
第97回アカデミー賞
- 受賞:国際長編映画賞
- ノミネート:作品賞
- ノミネート:主演女優賞(フェルナンダ・トーレス)
第82回ゴールデングローブ賞
- 受賞:主演女優賞ドラマ部門(フェルナンダ・トーレス)
- ノミネート:外国語映画賞
第81回ヴェネツィア国際映画祭
- 受賞:脚本賞(ムリロ・ハウザー、ヘイトル・ロレガ)
その他の賞
- 全米映画批評会議:2024年国際映画トップ5
- 英国アカデミー賞:非英語作品賞ノミネート
- 『Sight & Sound』誌:年間ベスト50映画選出
5-3.歴史的意義
本作はブラジル映画として初めてアカデミー賞国際長編映画賞を受賞し、ブラジル映画史に新たな1ページを刻みました。これは4回目のノミネートにしての初受賞であり、フランスやイタリアなど映画大国との激しい競争を制しての快挙でした。
また、フェルナンダ・トーレスのゴールデングローブ賞受賞は、ブラジル人女優として初の快挙でした。これは、25年前に彼女の母フェルナンダ・モンテネグロが『セントラル・ステーション』でアカデミー賞にノミネートされたという歴史に、新たな栄誉を加えることとなりました。
6.テーマ・メッセージ性
『アイム・スティル・ヒア』は、単なる伝記映画を超えた多層的なテーマを持つ作品です。ここでは、本作が伝える重要なメッセージについて考察します。
6-1.記憶と抵抗の力
本作の中心テーマは「記憶が持つ力」です。エウニセが夫の名前を呼び続け、その記憶を保ち続けることは、軍事政権による「忘却の強制」に対する抵抗の象徴となっています。記憶を保つことが、政治的抵抗の一形態となり得ることを示しています。
「彼らは私たちから多くを奪うことができるかもしれない。でも、私たちの記憶までは奪えない。」
6-2.女性の強さと母性
エウニセは5人の子どもを育てながら、夫の失踪の真相究明に立ち向かいます。映画は彼女の母としての強さと、家族を守り導く意志の力を称えています。彼女の闘いは、個人的な悲劇を乗り越え、より大きな社会正義のために立ち上がる女性の姿を描いています。
6-3.歴史的真実と国民的記憶
映画は、ブラジルの軍事独裁政権の暗黒面を直視し、国の歴史と向き合うことの重要性を訴えています。歴史の中で抹消されかけた人々の存在を復権させ、集合的記憶の重要性を強調しています。
この映画が作られた意義は、過去を忘れないという決意表明でもあります。特に現代のブラジル社会が再び権威主義的な政治傾向を見せる中、歴史から学ぶことの重要性が強調されています。
6-4.法と正義の追求
エウニセは夫の失踪後、48歳で法学部を卒業し、人権活動に人生を捧げます。これは個人的な悲劇を社会的正義の追求へと昇華させた例として描かれています。法律が社会変革の道具となり得ること、そして法の支配が民主主義の基盤であることを示しています。
6-5.現代社会との関連性
本作のテーマは、ブラジルだけでなく、世界中の権威主義体制下で人権侵害に苦しむ人々にとって普遍的な意味を持ちます。「記憶」と「真実」を守ることの重要性は、現代においても変わらないメッセージです。
監督のウォルター・サレスは、過去と現在の間に対話を生み出し、歴史から学ぶことの重要性を訴えています。この映画は単に過去を振り返るだけでなく、現在と未来に対する警鐘としての役割も担っています。
映画が伝える普遍的なテーマ
- 記憶の政治性:忘却に抗い、記憶を保つことが政治的行為となり得ること
- 個人と国家:個人の経験が国の歴史の一部となる過程
- 女性の抵抗:父権的・権威主義的社会における女性の闘い
- 家族の絆:危機に直面した家族の結束と分断
- 移行期正義:独裁政権後の社会が過去の人権侵害とどう向き合うか
7.まとめ:観るべき理由
『アイム・スティル・ヒア』を観るべき7つの理由
- フェルナンダ・トーレスの圧巻の演技 – ゴールデングローブ賞を受賞した、抑制された感情表現と繊細な心理描写が魅力
- 実の親子による世代を超えた演技の継承 – フェルナンダ・トーレスと母フェルナンダ・モンテネグロが同じ役を演じる象徴的意味
- ウォルター・サレス監督の繊細な演出 – 「セントラル・ステーション」「モーターサイクル・ダイアリーズ」の名監督による16年ぶりの故郷ブラジルを舞台とした作品
- 普遍的な人間ドラマ – 政治的文脈を超えた、愛、喪失、希望、記憶をテーマにした感動作
- 歴史的重要性 – 軍事政権下のブラジルという歴史的背景を理解する貴重な機会
- 芸術性と社会性の融合 – 美しい映像と音楽で描かれる社会派ドラマ
- アカデミー賞受賞作 – ブラジル映画として初の国際長編映画賞受賞という歴史的作品
ブラジル軍事独裁政権下で夫を失ったエウニセ・パイヴァの実話をもとに、人権と家族の絆を描いた感動的なヒューマンドラマです。夫の失踪後に法学部を卒業し、先住民の権利専門家として政府や国際機関の顧問を務めた彼女の闘いは、静かな抵抗の象徴として多くの人々に勇気を与えています。主演フェルナンダ・トーレスの迫真の演技と重厚な脚本は国内外で高く評価され、アカデミー賞など数々の映画賞を受賞しました。
社会問題や歴史、人権、女性のリーダーシップに関心のある方にとって、必見の作品と言えるでしょう。